問題の核心: 統一教と、天一国に先立つ審判 (by マイケル・マーシャル)

「真の家庭を愛する会からの受信メールを掲載します。」

統一運動内における現在の分裂の原因に関しての一つの説明は、顯進様と郭先生は、統一運動の行くべき方向性は、非宗派的、普遍的な方向へと向かうべきであり、その流れによれば統一教会は次第に姿を消していかなければならないと信じているので、家庭連合から統一教への後退に対して異議があった、という説明です。

私は、この点を突っ込んで考えれば問題の核心に近づくことができると信じます。お父様の働きが非教派的な方向へと前進して行かなければならないと考えるのは、顯進様や郭先生だけでなく、私や、私のような考え方をする多くの人々もそれに合意するはずです。そしてこれこそが把握すべき決定的なポイントであり、それは戦略的方向の選択とか、真の父母様のビジョンと教えを実現するための最も効果的な方法に対する議論などではありません。

私は、それがお父様の平和メッセージのみ言葉から響いて来る、その教えの核心であり、根本的な性格だと思います。そしてそれは、お父様の再臨主としての核心的使命の一部であると考えます。つまり、全ての人々が聖酒式を通してサタンの血統から分離し、真の父母様によって立てられた本然の真の神様の血統に自分自身とすべての後孫を接木させることにより、地上で神様の理想の世界である天一国に入ることのできる門を開くという使命のことです。

お父様が、全ての信仰的伝統の代表者達に祝福を授けておられることが、本来の理想世界の復帰と創造をどのようにして進めるべきかについてのお父様の目的と意図をはっきりと示していると、私は思います。しかも、それでもまだ不足と言わんばかりにお父様は祝福の恩恵を、霊界にいる歴史的な大罪人達にまで拡大されたのです。

ここから導かれる結論は、教派主義への後退は、当初のビジョンと理想の放棄であるということです。実際には、それはお父様が本来の使命を達成できなかったという暗黙のステートメントです – 私は、この「暗黙」という点を強調します。というのは、教会の現指導者たちの中では、意識的にそのような見方をしようという人はひとりもいないと思いますので。しかし、私に関する限り、亨進様、国進様と仁進様に主導される現在の統一教の行動と神学が暗黙の内に伝えているメッセージは、「私達は、お父様の天一国のビジョンが現実のものとして実現できるとは思わない」というものだと見受けられるのです。

ソウルに宮殿が建設されています。少なくとも一人のコメンテーターが、ソロモンがエルサレムに建てた神殿との類似点を指摘していました。ソロモンの神殿は来るべきメシヤであるイエスを象徴するものでした。それでは今の宮殿は誰を象徴しているのでしょうか?「再再臨主」ですか?再臨主は、今でも私達とともに地上におられます。私に言わせればこの「宮殿」が伝えるメッセージは、「お父様は本来の使命を完遂することができなかった」ということになってしまいます。控えめに見ても、それはお父様の「将来の摂理の失敗」のための準備として見ることしかできないでしょう。しかし、お父様が天一国の実体的な基盤を神様の前に捧げようと心血を注いでいらっしゃる今の時に、一体どうしてそのような神殿を建てる必要があるのでしょうか?それよりもお父様の努力していらっしゃることそのものを助けるべきではないでしょうか。

亨進様は、原理と本然の真の血統復帰の中心的重要性から離れた神学を立ち上げようとしておられるように見えます。彼は、我々は皆真の父母様による救いを必要とする罪人であると教えています。亨進様ご自身すらもそのような救いを必要とする罪人だというのです。それは何を意味するのでしょうか?聖酒式と祝福が効果がないということになるのでしょうか?祝福中心家庭とは言っても、実は神様の本来の真の血統に接ぎ木されていなかったということなのでしょうか?それでは亨進様自身はどうなのでしょうか?彼も、新約時代の人々のように救いを必要とする罪人なのでしょうか、或いは、彼は真の父母様の苦労の生涯を通して新たに復帰された神様の本然の真の血統の最初の結実の一人なのでしょうか?

もしも後者であれば、これは真の父母様が人類に対して下さった特別のギフトであり祝福であり、他の誰にもできないことであると、誇りを持って宣言しなければならないはずです。もしも前者であるならば、彼は、真の父母様が実際に本来の真の血統を打ち立てられて、全ての人々がその血統に属することが可能となったということを(暗黙的に)否定することになります。そしてそうなれば、私達もキリスト教の伝統のどこかで、イエスを通して救いを見出すことになるでしょう。

この新しい「救いの神学」に伴い、キリスト教がイエスを神格化していったのと同様にして、真の父母様を神格化するプロセスが進められています。お父様は、キリスト教の大きな誤りの一つは、人と神様との間に、越えられない溝を作ってしまったことであると言われました。真の父母様は、その溝を埋めるために来られたのに、一体どうしてその溝を再び深くするような教えを推し進めるのでしょうか。初期のキリスト教徒には、いくつかの言い訳がありました。彼らは、イエスがこの世の王国を確立すると期待していたので、彼が突然殺された時に、何が起こったのかを急いで理解する必要があったのです。その時イエスの神格化が進行したのは、実は彼が地上の神の国を実現できなかったからでした。私の目から見ると、このお父様を神格化しようとする神学は、表面的にはお父様を尊敬しているように見えたとしても、実は「神の国は、たとえお父様の在命中であろうと、地上に現実のものとして実現することはない」というメッセージとともに、真の父母様を「上階の天国に追いやってしまう」ことだとも思われます。

現在の統一教の公的な活動の中に、これと同様の信仰の危機が現れています。中央集権化が進み、トップダウンの命令によりコントロールがなされ、祝福中心家庭は、最低限の見せ掛けの適正な手続きすら踏まれずに一方的に解雇され、韓国や日本の牧師達は、郭先生はサタンであり、顯進様は堕落アダムであるという新しい統一教「神学」を肯定するビデオ撮影を強制され、それを拒否すれば解雇される。こういった活動、とりわけ最後に述べたものなどは、共産主義社会と酷似するものであり、まさに共産主義と同一の人間観を表していると言っても過言でないほどです。人々は権力者達により、彼らの定義によって常に移り変わる「より高い目的」の追求のために、時には利用され、別の時には捨てられる一つの資源に過ぎないのです。

新しく出現しつつある統一教の組織体制と行動様式は、人々が良心に従うとは信じられないので、全ての祝福中心家庭が従うべき中央からの強力な命令がなければならないという態度を反映しています。
祝福中心家庭という人々は、お父様のみ言葉と模範から生涯にわたって学んできている人々であるにも拘らずです。祝福中心家庭は、自分自身の名前で祈ってもいいが、天一国建設において、統一教指導者とともに歩む共同創造者としての信頼は与えられないという話です。私はある人々が、もしも皆がそれぞれの良心に従えば無政府状態になるだろうと言うのを聞きました。もしも原理と真の父母様が明らかにしてくださった理想を信じていてもそうなるというのでしょうか。全ての人の良心が神様の心情とみ旨にアラインされていればそんなことはありえないでしょう。

お父様の天一国についての教え(本然の心情の世界、正午定着、影のない世界等)は、自らの良心と常に触れることができ、良心に従って生活できる人々が出現することを前提としています。当然のことながら、そのような人々が一夜にして現れるものではなく、たゆみなく良心の鏡を磨くことが必要とされます。しかし根本的に、私達は、そのような社会ができると信じ、そのような人々が現れうると信じているのでしょうか?韓国語には、外的な法律がなくても正しく生きることのできる人という意味の「法なしで生きられる人」という表現がありますが、そういう人々が出てくることを私達は信じているのでしょうか、それとも、それは不可能だと思っているのでしょうか?

私からみると、現在の統一教の形態は、この問いに対して「それは不可能である」と答えているように見受けられます。「人々が良心に従って生きるとは信じられない。堕落性は脱げないので、コントロールが必要である」という答えです。この答えの意味するところは、真の父母様が導いてこられた約束の地に、私達は入ることができないということであり、血統の転換は堕落性を持った私達を変えることはできないということであり、真の父母様によって提示された本然の世界に対するビジョンは幻想に過ぎず、究極的には、神様は私達を堕落の影響から救う力がないということになります。

現時点において、祝福中心家庭の全世界の共同体内で深刻な分裂が起きています。人々が、これは恐ろしいことだと言いながら、誰がこれを引き起こしたのかと責任の所在の追求にやっきになっています。しかし、私はこれが、聖書にある「主の大いなる恐るべき日」という句にある「恐るべき」という意味以外には「恐ろしいこと」だとは思いません。それは確かに極度の痛みを伴い、祝福中心家庭の信仰の基盤を揺るがすものではありますが、しかし、避けがたいものであると思います。神様の審判を経ることなくして天一国に入ってそれを建設することができるでしょうか?その期間や、苦痛の程度と範囲は様々であり、それを通過する者がどのように反応するかにもよるでしょう。しかし、神様が私達の中から理想の神の国に住むことのできる男女と家庭を創造するために私達の心をふるいにかけられるので、この審判自体は必要で避け難いものになってきます。

イスラエル民族はエジプトでの奴隷状態を脱出し、約束の地に向かいました。しかしその地に入る前に、その夢が実現することに対する彼らの信仰が、カナン偵察その他の試練をとおして試されました。お父様が天一国の実現を語られる今の時に、私達の信仰もそれと同様に試されています。私たちは、自分達の堕落性が脱げ、新生することを本当に信じているのでしょうか?たんに個人的、霊的にのみ新生するだけでなく、その結果が後孫にも影響することにより、神様の本然の真美善を反映した社会と文化が現れるようになることを本当に信じているのでしょうか?私たちは、天一国の夢が実現可能であると信じているのでしょうか?

私は、この審判が個人と家庭だけでなく、統一運動全体に訪れていると信じます。宮殿の現象、教会の神学や教会組織の性格の変化等は、全てこの審判の一側面であり、天一国の可能性に対する私達の信仰に対する試験です。

教会の擁護者達は、私のような人にとっては、これは顯進様に関する問題ではないのだということを理解することが重要だと思います。もしも顯進様が、2年前に「もう勝手にして下さい!」と言ってモンタナの牧場に引きこもってしまっていたとしても、私は今の統一教の方向性に従うことはできないでしょう。その理由は、それがもはやお父様の本来のビジョンと教えに則ったものではなく、天一国に対する信仰の喪失だと信ずることには変わりがないからです。

(もちろん顯進様は私がこういう姿勢を取るための二次動機にはなっています。顯進様に対してなされている不正で非原理的な攻撃に対し、こういう小さな方法ででも抗議の表明をしないわけにはいきません。顯進様のなされた行いの善悪に対して、誰がどのような見方をするとしても、お父様の心情の中では、こういう状況の中で息子が孤立することを願ってはおられないに違いないではありませんか。)

しかし、顯進様はモンタナの牧場に引きこもってしまわれたわけでもなく、しかも、お父様の天一国のビジョンを、実体化しうる理想であると確信しておられます。私も全く同じように信じますし、その試みに対して一つになって努力することのできる真の子女様がいらっしゃることは本当に有難いと思っています。

摂理的に最も重要な問題は何かについて私の信ずるところを述べましたが、結局資産をめぐる争いなどは周辺的問題に過ぎないと言うことです。しかし、これもまた正確な表現ではありません。資産は、あくまでも天一国を促進し発展させるために必要とされるのであり、私の世界観から言えば、神様が顯進様を信じて現時点で顯真様に委託しておられる資産を放棄することは、摂理的無責任な行為となると思われます。

マイケル・マーシャル、2011年6月

 

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